筆者は前々からこの男はどうしようもない奴だなと感じていたのだが、決定的な出来事があったのでこの際はっきり批判をしておきたい。その人物とはオスロ大学教授である韓国籍ロシア系ユダヤ人の朴露子だ。朴露子は一応韓国の代表的な進歩派知識人という事になっていて、ハンギョレ新聞でも連載コラムを持っており、それらは同紙日本語版やその前身であるハンギョレサランバンでも一部読む事が出来る。最近は翻訳が滞っているようだが。だがそうした朴露子の主張を読んでると、筆者は頭が痛くなってくると同時に腹立たしくなる。こいつ馬鹿じゃねえの、と。
ここで朴露子の事を取り上げるのは他でもない、例の「帝国の慰安婦」(現時点では日本未訳。が、近いうちに出版されるとか…)という著書が問題になっている、通称「おんな文昌克」こと朴裕河絡みでだ。「従軍慰安婦は日本軍の同志」とかいう無茶苦茶な事を主張している、日本右翼が涙を流して大喜びしちゃいそうな例のアレな本である。元「慰安婦」被害者達がこの本を名誉毀損で訴えた話は日本でも報じられただろう。一方、日本でどれくらい認知されているかは不明だが、この「帝国の慰安婦」を巡って韓国では朴裕河と朴露子の間で論争が起こっている。朴裕河が自分のフェイスブックに書いた文を巡って双方の間に論争が起こったものだが、それについては該当する朴露子の記事を訳しているブログがあったので、以下を参照されたい。
http://hanrano.exblog.jp/19903374/
『赦し』という名の暴力
原文はこちら。
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/13121
これだけ読んでると一応は御説ごもっともで、朴露子は朴裕河と激しく喧嘩しているかのように思えるが、とんでもない。筆者はこの論争の事を知った時「朴露子がどの口でそんな偉そうな事を言えるのか」と思った。と言うのも、実は朴露子は過去に何度も朴裕河の事を肯定的に取り上げた事があるからだ(もちろん後にそれを訂正したり反省するような事は一度もしてない)。知らない人は意外に思うかもしれないが、以下の記事(両方とも韓国語記事)を御覧いただければ分かる。朴露子は2000年代に書いた自分の記事をもう忘れたのか?
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/55
朴裕河教授の本、そして我々の「民族」意識(2005.10.30)
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/13121
赦す事を知るのも「力」ではないか?(2008.04.26)
全文翻訳などあまりに馬鹿馬鹿しいので要約を以下にまとめる。
まず最初の「朴裕河教授の本、そして我々の「民族」意識」の内容は以下のようなものだ。これは「和解のために」の書評である。強調部分はいずれも訳者による。
日本の立場をより積極的に理解しようという著者(朴裕河)の斬新な姿勢にはインスピレーションを得られるが、その意見に同意出来ない部分があふれている。それでも「慰安婦」被害者の手記引用で「日本人よりも、自分を売った父がもっと憎い」という部分に胸が熱くなった。我々は慰安婦問題をあまりに「民族」の枠に織り込みすぎる。被害者の立場からすれば自分を売った朝鮮の男達や、自分を挺身隊に送っておきながら自身の自分の娘だけはそこから外した富める朝鮮の女ももっと憎い。「民族」的な部分ばかり強調しては被害者にとって2次暴力になる。自分は朴裕河の意見に全的に同意しないが、「国民基金」をもらった一部のお婆さん達を非難する国内市民団体やマスコミを人間的に理解出来ない。 「国民基金」がいかに不純で国家的謝罪と賠償を回避する為のものだとしても、性暴力を受けた被害者に「民族的な」道徳的リンチを加える権利はない。
次に「赦す事を知るのも「力」ではないか?」という記事の内容は以下のようなものである。これは先のものよりももっと強烈だ。
「韓日歴史認識論争のメタヒストリー」という論文集にあった朴裕河の文「韓日間の過去克服がどのように可能なのか」という文が刮目に値する。朴裕河先生はその「克服」において「向こう」の役割だけでなく、「こちら」の役割の重要性も強調された。仮に天皇が西大門刑務所の前でドイツ首相のように跪いて謝罪しても、国内のマスコミ達には「政治的ショー」に映って一蹴されるというのが、朴裕河先生の考え。私はその意見を否定し難い。村山談話が「お詫び」という言葉を使ったのに、それを「謝罪」と受け入れた国内の人はどれだけいたのか?
仮に天皇が詫びて国家的賠償がなされたとしても、「ショー」と一蹴する人は多いであろう。それだけ「感情の溝」は深い。神戸の大震災があった時に「日本の奴ら天罰を受けた」と言った者を実際に自分は見た。
だが、それでも日本の民衆と支配者は違う。咸錫憲のように、加害者を赦して彼らの「民衆性」発見に力を傾注するだけの心の力を持つべきだが、そのような人は稀だ。
日本の支配者と民衆を一緒に考えたら、韓国人もベトナム戦争被害者から責められるのを覚悟せねばならない。ベトナムの密林で銃弾に当たって死に、国内の工場で労災で死に、軍でリンチされて死んだ者達は「共犯」というより「被害者」だ。また違う角度で見れば広島・長崎の被爆者や東京大空襲で焼け死んだ日本の良民も被害者だ。彼らに人間的な情を見せて、過去の帝国主義狂乱の中で自分にも他人にも不本意ながら苦痛を与え、苦痛に満ちて死んでいった全ての人々に冥福を祈って赦しを与えるのは仏心または隣人愛ではないか?
「国民基金」をやむなく受け取った被害者を責められないのは確かにそうだろう。でも、何でその論拠がわざわざ朴裕河なの? そんなの朴裕河の話を引用しなくてもいくらだって可能じゃないのか。しかも朴露子は、娘達を「慰安婦」として売ったり徴用に協力した朝鮮人もいるのだから、「民族」を強調するなとまで言う。朝鮮人にも悪い奴はいたから、という理屈で日本の植民地支配の犯罪を薄めようとしてるとしか思えない。これはまさに朴裕河がずっと主張してきた事そのものではないか。
次の記事では何と、朴裕河先生の論文を「刮目に値する」とまで言ってベタ褒めである。仮に天皇が西大門刑務所まで行って謝罪してもまだ赦さない韓国人がいるだろう、と。それについて朴裕河と同じ意見だとまで言う。村山談話を受け入れない者に食って掛かってもいる。つまり朴裕河と同じで、朴露子は日本の謝罪を(それが「国民基金」のように不純で国家的謝罪と賠償を回避する為のもの、だとしても)我慢して受け入れろと言っているのだ。それが「こちら」の役割だと。早く言えばこれは日本に頭を下げて(被害者である韓国側が)妥協しろという事である。しかもそれを受け入れない韓国人に対して「日本の支配者と民衆は違う」と言い、咸錫憲まで持ち出して正当化する始末なのだから開いた口がふさがらない。天皇を責めるのと日本の民衆を責めるのが同一だとでも言うのか? 天皇が「日本の民衆」なのか? 朴露子こそ「支配者と民衆」をごっちゃにしているのではないか。日本の為政者・支配者が不誠実な対応や形ばかりの謝罪を繰り返してきたのが問題なのに、そこでいきなり阪神大震災やベトナム戦争の話を持ち出すのは全く意味不明である。いずれにせよ朴露子は天皇の訪韓謝罪実現を支持しており、それを一蹴するような事はせずに受け入れろと主張しているのである。和田春樹ら「国民基金」「日韓知識人声明」系の主張ほぼそのままと言えるだろう。
これだけ朴裕河と同じような事を言い、その記事や論文を好意的に取り上げてきた朴露子が、今になって朴裕河と従軍慰安婦問題で論争してるだって? しかも「「赦し」という名の暴力」だって? 「赦す事を知るのも「力」」だなんて事を、しかも朴裕河の論文をベタ褒めしながら言ってたのはどこの誰だよ? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろという話だ。いや、朴露子が馬鹿にして冒涜しているのは「慰安婦」はじめとする日帝の被害者そのものだ。こんな輩にどうして従軍慰安婦問題をはじめとする植民地支配の事を語る資格があるというのか!
朴露子という人間に一貫しているのは「民族主義」の否定だ。とにかく「民族」が絡むとそれは全て無条件的に「悪」と決め付ける。韓国にはこうした西欧社会主義ばかりを無条件に崇拝し、「民族主義イコール帝国主義」と規定して否定したがる「反民族・反北」の進歩派というの実は一定数いて、マスコミで言うと今のハンギョレやプレシアンにはそうした「反民族・反北進歩派」の論調・勢力が圧倒的に強い。朴露子はその典型例で、こうした連中は植民地支配の問題についても「民族」を切り離して、いやそれどころか悪しき概念として考えようとする為、朴露子のように天皇の訪韓謝罪を肯定的にみなしたり、「朝鮮側にも悪人はいた」という論理で結果的に日本の犯罪を軽減・免罪してしまう「利敵行為」を未必の故意でやってしまう。帝国主義の被害に遭った植民地の民族自決権すら、「帝国主義の民族主義」とごっちゃにするのだから、これはもう単細胞な西洋かぶれとかいうのをはるかに飛び越した馬鹿としか言いようがない。被害者と加害者の立場をごっちゃにする。それはまさに「朝鮮人にも従軍慰安婦を送り出すのに協力した者がいた」と言って日本の犯罪行為を薄めようとしている朴裕河の主張そのものではないか。付け加えるなら「従軍慰安婦について日本の謝罪は不要」「従軍慰安婦はゴネている」と言い放った文昌克(結局総理候補を辞退したが)ともさしたる違いはない。
このように、これまで「胸が熱くなった」だの「赦す事を知るのも「力」」「刮目に値する」「朴裕河先生の考えを否定し難い」とまで言ってさんざん朴裕河を持ち上げていたはずの朴露子が、何故に突然喧嘩をし始めたのか? 筆者の推測だが、これは韓国現地の社会的な「空気」を読んでの行動ではあるまいか。大きなきっかけはやはり文昌克問題であろう。文昌克が総理候補に指名され、その植民地支配を肯定する妄言が明るみに出て大きな社会的反発を浴びた。朴露子もそれに便乗して、わざとらしく文昌克に皮肉の一つも投げかけたり、「盟友」の朴裕河とわざとらしく「無気力相撲」を繰り広げているに過ぎない。つまり朴露子の「商売」なのである。本当に朴露子が朴裕河と喧嘩するならば、これまであの女をさんざん持ち上げてきた己の不明を恥じて反省してからの話だろう。だがそのような事は何もしていない。朴露子も依然として本心では朴裕河と同じ歴史認識を保持し続けているという事だ。朴露子など、信用してはいけない韓国進歩知識人の筆頭格である。インチキ知識人。
これまで見て来たように、歴史認識や民族観において文昌克・朴裕河・朴露子の3者に有意な違いなどほとんどない。重要なのは文昌克一人を撃つ事ではなく、これら3人まとめて倒さねばならないという事だ。
朴露子が自己正当化の為に引用した咸錫憲(この人の思想や功績を否定はしないが、冷戦時代・軍事独裁の当時と今では時代状況や国際環境が違い過ぎる。咸錫憲の著書や思想でもって21世紀現在の朝鮮半島や日本をめぐる情勢を理解・解決する為の一助とするには、もはや古過ぎて役不足ではないか。もはや咸錫憲の著書などは歴史的使命を終えつつあると思う。もちろん古典には古典なりの意味はあるが)は確かに「日本の民衆と支配者は違う」と言った。一理ある話であり、それらを区別して考える視点も必要だろう。だが「朴露子と朴裕河(と文昌克)は違う」と考えるのは大いなる過ちであり、それらを区別して考えるのは危険ですらある。この「ダブル朴(with 文)」はいずれも日本との「和解」で植民地支配責任を免罪させる悪質な役割を果たしている、という点で同じ穴の狢とみなさねばならないのである。
「朴裕河を評価する韓国の腐り切った左派・進歩派」という点で、朴露子の他にもう一人絶対槍玉に挙げておかねばならない輩がいる。例の従軍慰安婦写真展の安世鴻だ。そうした活動をするのは良い。だが、なぜそれをアジアプレスのように極悪な集団の助けを借りてやらねばならないのか? アジアプレスの石丸次郎(この男も朴裕河のツイッターをしょっちゅう好意的にリツイートしている)が「北朝鮮に対する賠償は必要ない」と主張し、朝鮮学校の教育内容を攻撃している急先鋒だというのに、それと手を組んで従軍慰安婦写真展をやったり、わざとらしく朝鮮学校の事を自分のツイッターで取り上げるなど矛盾の極みではないのか。安世鴻については以前にもネタにしたが、続きの記事を書かずに放置した状態になってしまった。改めて近日中に続きを書いて公開する事を予告しておく。
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