そうでない確信犯というのも中には存在する。何の事かというと、沖縄の米軍基地を「本土」に引き取ろう、という一部の動きについてだ。こうした署名を始めたり賛同している大半の人達は辺野古の弾圧など沖縄米軍基地問題の酷い惨状に心を痛めている良心的な層であると思う(筆者の主観的な印象だが)。だからこそ、現状の閉塞感から来る絶望的心理に迷って、ついついおかしな言動をしてしまう事もある。市民運動・社会運動の現場ではよくある事だ。故に今一度熟慮してみる事が必要だろう。それでおかしな点に気付いたら引き返せば良い。「沖縄の基地を「本土」が引き取りゃいい」など何重にもおかしな話である事はすぐに気付くはずだ。そんなのは安倍自民党政権やアメリカの立場にしてみれば「だから何? 俺達には痛くも痒くもねえよ。むしろおまえらこそ本当にそれでいいの?」でしかない話なのだから。それどころか、基地反対派が弱気になって一方的に妥協してきたと向こうは受け取るだろう。
特に筆者が一番おかしいと思うのは「米軍基地本土引取り」を主張する人々が、京都の米軍レーダー基地問題をこの件と関連付けて考えようとしない点だ。もし日本政府が「このレーダー基地は君達の言う通り『本土』にあるんだから文句ねえだろ。それともこれを沖縄に建てたらいいのかね? 『本土人』らしく基地を受け入れた上で交渉したまえ」と言ってきたらどうするのか。「本土引取り」を言う人々の大部分は京都レーダー基地にも反対している(はず)のだが、不思議なほどにこれらの事を同時に考えたり言及するのが見られない。京都の米軍レーダー基地と併せて考えれば「米軍基地本土引取り」論の矛盾やおかしな点にも気付くはずだ。
今の日米新ガイドライン体制をなめてかかってはいけない。日本はこれから米軍と一緒になって世界中どこでも自衛隊を派兵して戦争に一枚噛むというのだから、日米両政府は沖縄も「本土」も関係なく、米軍基地と自衛隊基地を増強しようとはしても削減しようなどとは夢にも思わないだろう。日米安保・日米新ガイドラインの観点から見れば、米軍基地が沖縄にあっても「本土」にあっても同じ事、今ある(または建設予定の)基地を大阪などに移した所でそれは日米安保の枠内であり、それが日米安保を揺るがす事は全くない。「その上で基地廃棄を交渉」する余地などありはしないのだ。むしろ今の翁長県政下では、日米安保をがっちりと保持したまま米軍基地を本土に移す事こそ望む所というフシが見受けられる。これについてはまた後日改めて述べるが、翁長知事の究極的な狙いは沖縄を「ある時期のある国」のようにする事にあるのだと思う。
同時に、日米両軍に殺される国の民衆にとっては、沖縄であれ「日本本土」であれ加害者であるという事。今一度これらの部分を良く考えて欲しいと思う。
もう一つ、一部の人々がこうした「本土引取り」論に陥る心理とは「復讐の情念」もあるのではないか。「沖縄は米軍基地のせいでこんな酷い目に遭っている。『本土』の奴らこそ同じ目に遭ってみろ」という感情だ。これは誰しも当然抱く感情であるし、基地を押し付けてきた日米政府や日本国民に対して叫ぶべきシュプレヒコールだろう。だからといってそれを忠実に現実化する事を求めるのが解決策なのか。いや、今まで被害を受けてきた沖縄の立場から復讐をするんだ、というのは十分にありだと思う。では「本土引取り」は果たして沖縄の受けて来た苦痛に対する復讐行為足りえるのだろうか? 仮に沖縄の米軍基地が「本土」のどこかに移されて、そこの周辺住民が米軍から様々な被害を受けたとしよう。つまり沖縄の基地周辺住民と同じ目に遭った、今までの復讐・敵討ちがなった、溜飲が下がったとして、それを喜んで良いものなのか。その「復讐・敵討ち」とやらをしてくれたのは誰ですか? 他ならぬ最大の元凶・米軍でしょ? 最大の元凶・米軍が、「本土」の憎きヤマトどもを轢き逃げしたり強姦したり騒音で沖縄の仇を討ってくれた…? 筋から言えば、米軍とヤマトというのはグルになって沖縄を痛め付けてきた共同犯コンビであり、どちらも仇ではないか。その仇コンビの親分の方が子分の方を痛め付けるという、これの何が沖縄の復讐になるというのか。単純な「復讐・敵討ちの論理」から見ても、「米軍基地本土引取り」というのは完全な間違いである事が分かる。「沖縄の復讐」を真剣に考えるならば、討つべき仇は日本とアメリカ両方に他ならず、別なやり方でより巧妙に行われなければならない。仇の片方(それも強い方)に頼るようなやり方は何重にも間違っている。復讐というならば、だからこそ一時の感情的な衝動に惑わされず、冷徹な思考を以って考えねばならないのだ。赤穂浪士を見るまでもなく、復讐・敵討ちというのは現実にも大変難しくて知恵と労力を必要とする。一時の激情だけで成し遂げられるものではない。
米軍基地を「本土」に移すというのは結局の所、日米安保を延命させる自殺点シュートであり、妥協論でしかない。辺野古に行けば反対運動が凄まじい暴力的弾圧を受け、依然として日本人の多くが日米安保を肯定している。こういう絶望的な状況に妥協論の生じる余地が出て来るのだろう。「米軍基地を完全になくすのではなく、県外移設なら日米両政府も受け入れてくれる可能性が少しは高いのではないか」という弱気の思考だ。それを「ヤマトが沖縄と共にありたい」「負担とリスクを負う覚悟」「本土引取り」などと言い換えるのは、弱気をごまかす為の自己弁護だろう。だからこそ、今一度考え直さねばならない。一部の人々(中には意外な人もいた)が「米軍基地本土引取り」論に走るのは、厳しい状況とそれによる不安や弱気の反映、あるいは一時的な激情によるものが大きい。だが十分に考え直す余地はある。そうした人々には今一度熟慮をしていただきたいと思う。
が、しかし…。
こうした気の迷いによる判断ミスとは違い、「確信犯」には情状酌量の余地はない。「本土受け入れ」が何の解決にもならない事、沖縄にとっての復讐や敵討ちにすらならない事、日米安保には何の痛痒も与えないばかりかむしろ強化させかねないという事を知りながら言っている奴がいる。その者に名前を尋ねれば、高橋哲哉と答えた…。
(次回「新ガイドライン・日米安保・翁長ドクトリン」に続く)
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