〈親日派は生きている 86〉
北朝鮮の親日派清算実態「北朝鮮の親日派清算、我々(南)よりもよくやった」
2013.04.15 00:01鄭雲鉉
解放後、親日派清算問題は南北朝鮮全ての時代的課題だった。先に言及したように、南では米軍政が親日派清算作業を反対した事で、米軍政3年間は手も付けられなかった。続いて出帆した李承晩政権は親日勢力を背に負っていたせいで、反民法(反民族行為処罰法。解放後の南で、植民地時代の親日派を処罰する為に1948年8月に制定された。訳者注)制定段階からして反対し、結局は反民特委(反民族行為特別調査委員会。1948年10月に構成された、反民法に基づいて親日派を調査・処罰する為の特別機関。訳者注)まで瓦解させた。ならば、北朝鮮政権は親日派清算を十分に行ったのか? 結論から一言先に言うなら、北朝鮮はその時それなりの清算作業を終えており、それによって以後親日派問題で国民的対立が惹起された事がない。
解放直後、北朝鮮は親日派清算を当面の課題と規定したが、これは社会主義国家建設の必須課題と認識した為だ。さらに北朝鮮に進駐したソ連軍政は南朝鮮の米軍政とは違い、親日派排除の原則下に反日勢力が権力中枢となる事を希望し、またこれを支援した。北朝鮮の親日派清算方式は南朝鮮とは違う方式を採用した。すなわち反民法制定や機構を作らず、社会主義国家建設過程で処理した。これは人民裁判のような社会主義特有の制度の為だとも言える。
北朝鮮で親日派清算問題が公式的に取り上げられたのは1945年9月、朝鮮労働党平南地区拡大委員会で採択された「綱領」からだ。「綱領」には日本帝国主義と親日的朝鮮人及び反動資本家が所有していた工場・鉱山・運輸などは没収して国有とし、これらの土地も没収すると規定した。これは物的清算を通じて土地改革の為の基本原則として提示したものだが、人的清算も自ずと随伴した。特に北朝鮮は親日派の範囲を先祖の遺産を相続した子孫まで含ませたが、この為に大多数の大物親日派とその子孫達は北朝鮮政権樹立後に越南した。
北朝鮮で親日派粛清作業は、北朝鮮政権誕生と共に本格始動された。1945年10月労働党創建時、親日派処断と日帝残滓清算問題が革命の戦略的課業として決定された。以後親日派清算は2段階に亘って進行されたが、解放後から1946年2月北朝鮮政権樹立までを第1期、1946年2月-1947年2月までを第2期に分ける事が出来る。正式な国家機構がなかった第1期の時には、地方で住民達が人民裁判を開いて親日派達を検挙したり、あるいはソ連軍隊に引き渡したりした。この過程でリンチが加えられた事例もときおりあった。
第2期は1946年11月から1947年2月まで進行された北朝鮮の市・道人民委員会委員選挙過程でだった。北朝鮮は選挙法第1章第1条で親日派排除を規定し、親日分子の選挙権を剥奪した。親日派は投票出来ない事は言うまでもなく、選挙人名簿に登録する事すら禁止させた。その対象は▲中枢院参議・顧問全員 ▲道会・府会議員全員 ▲総督府及び道責任者全員 ▲警察・検事局・裁判所責任者全員 ▲軍需業者 ▲親日団体指導者などだった。これらは選挙人名簿作成過程で身元が確認されたり、また親日前歴が明るみにされたりした。その結果1946年11月3日の選挙で575人の親日派が選挙権を剥奪されたが、当時北朝鮮政権は選挙を通じて親日派を色分けしようとする目的も持っていた。
北朝鮮は親日派清算の為に特別法を制定する代わり、既存刑法と人民刑法、そして1946年2月の北朝鮮臨時人民委員会決定第2号を法的根拠に据える。人民委員会決定第2号の場合、処断対象者として▲売国奴 ▲中枢院参議 ▲特高刑事とそれらの手先 ▲道会・府会議員 ▲警防団など親日団体幹部 ▲日帝統治機関勤務者 ▲その他などを選んだ。主に意識的・職業的に親日行為を行った人間達が大部分だが、官僚出身の場合は高等官以上を対象にした。(北朝鮮臨時人民委員会は1946年3月7日付で「親日派・民族反逆者に対する規定」を制定した)
これらの内、特に独立運動家を弾圧した者は許されず、また供出・徴用・徴兵・創氏改名に率先した人間達も大きく処罰された。対象者達は罪状によっていくつかの等級に分けて処理されたが、大物親日派達が大挙越南したせいで、比較的「ザコ」に属する親日団体関係者達が大部分だった。これと関連して平安南道(平壌市含む)道検察機関で全114件を処理したという証言がある。
北朝鮮の親日派清算作業は、解放直後から怒った民心の爆発によって自然発生的になされ始めた。一例として1945年9月に江原道の高城(8.15解放直後は全地域が北朝鮮管轄下に、朝鮮戦争後は約3分の2が南に編入。これは当初の38度線と朝鮮戦争後の軍事境界線の線引きが異なる為。訳者注)では民族反逆者11人に対して人民裁判が開かれて死刑が言い渡され、またこれを執行しようとした。また、近くの襄陽(8.15解放直後は全地域が北朝鮮管轄下に、朝鮮戦争後は全地域が南に編入。理由は上記の高城と同じ。訳者注)でも民族反逆者3人を人民裁判に付して5年と3年の教化刑を下しもした。1945年8月-1946年2月の間に北朝鮮の所々でこのような人民裁判が開かれたが、裁判で有罪を受けた人間達は大概ソ連軍に引き渡されてシベリアに送られた。
一方、北朝鮮政権樹立後の1947年以後に法と裁判機関が設立されて以降の親日派粛清作業は、国家次元でなされた。ただ、南朝鮮の反民特委のような特別機構は設置せずに人民裁判所と人民検察所でこれを担当した。有罪判決を受けた者達は大概1-2年の懲役暮らしをしたり、さもなければ3-5年の強制労役刑に処された。だが時には死刑宣告が下され、また実際に刑が執行された場合もあった。満州で憲兵補助員を務めた平安道出身のソン・グァンイッ、平壌兵器廠に勤務した仁川出身の韓国人監督などをはじめとして、特高刑事、憲兵補助員出身者の中で処刑された者が何人かいた。日帝時代に特高刑事部長出身の崔鈴(この人物は親日人名辞典にも名があり、越南逃亡した。訳者注)という者は欠席裁判で死刑判決を受けてもいる。
ただ、北朝鮮の親日派清算も完璧たりえなかった。まず政権草創期の高級人材不足が理由で、親日前歴者をたまに起用したりもした。代表的なものとして臨時人民委員会司法部長を歴任した張憲根は日帝時代に警視・参与官・中枢院参議を務め、初代内閣の司法相を務めた李承燁は大和塾に加入した前歴がある。また文化宣伝省副相を務めた趙一明(本名・趙斗元)も社会主義運動をしながらも転向して親日団体である大和塾に加入し、軍部人士の中で初代空軍司令官を務めた李活は日本陸軍航空隊出身だった。
この他にも北朝鮮政権は日帝時代の司法官僚出身者のうち一部人士を再起用し、特に技術者・科学者・医師などは大多数が再起用された。例えば機械工業部第1副部長を務めた金ヨンヒョンは咸鏡北道富寧所在の冶金工場支社長出身であり、後に副相(長官)を務める金チュンサムは鴨緑江水豊発電所の電力技術者だった。ただし北朝鮮政権樹立後に1級親日派は大多数が越南した為、日帝時代の高官出身者や悪質分子が高位職に抜擢される事はほぼなかったと言える。
北朝鮮はまた政府樹立後は制度的に親日派清算を持続的に推進した。1948年9月5日に採択された朝鮮民主主義人民共和国憲法第1章(基本原則)第5条では「重要産業について日本国家と日本人または親日分子が一切所有してきたものは国家所有」と規定し、第2条(公民の基本的権利及び義務)では「親日分子は選挙権と被選挙権を持つ事が出来ない」を、第6章(裁判所及び検察所)では「日帝時代に判検事として勤務した者は判検事になる事が出来ない」と規定して親日派の社会再進出を法的に規制した。また1948年9月10日に金日成主席は「朝鮮民主主義人民共和国綱領」を通じて親日派処罰と植民地経済体制清算を再度指示した。結局、北朝鮮政権は親日派清算過程で樹立されたと言っても過言ではない。
参照:「証言・反民特委」(鄭雲鉉著 三人刊 1989)中から脱北者・申敬完氏の証言
訳:ZED
韓国語原文記事はこちら
http://blog.ohmynews.com/jeongwh59/297053
以前の旧ブログで「親日派は生きている 친일파는 살아있다」(著者 鄭雲鉉)という韓国の本の書評記事を書いた事があります(その書評記事はまた近いうちに再掲予定)。著者・鄭雲鉉氏は韓国のジャーナリスト・親日派問題研究家であり、同書の内容は氏のブログで公開されているので、今回の記事はその中の一編である8.15解放直後北朝鮮での親日派清算作業がどのように行われたかについて述べられた部分を訳しました。この「親日派は生きている」という本は日帝時代から今に至る親日派問題の入門書として最適な歴史読本であり、在日同胞は全員、それも朝鮮学校の生徒達は、とりわけ今のような情勢だからこそ読ませなければならない本と考えます。図書室に1冊必ず置くべきでしょう。無償化や補助金をエサにして日本の自治体が押し付けようとしている「新・皇民化教育(日韓併合は合法、竹島は日本領など)」など学ぶな! こういう本をこそ読んで学びましょう。
鄭雲鉉氏のブログ「宝林斎」
http://blog.ohmynews.com/jeongwh59/
その中で「親日派は生きている」のカテゴリー
http://blog.ohmynews.com/jeongwh59/category/17206
知っての通り、南朝鮮では親日派清算がロクに出来ず今の韓国の「親日共和国」へと至り、また日本では天皇はじめとする戦犯が処罰されないまま戦後の「平和国家の仮面をかぶった大日本帝国シーズン2」として現在に至っています。南朝鮮地域(及び在日)の親日派と日本の戦犯はいずれもアメリカに買い取られる形で免罪された訳で、それらが戦後も引き続き両国の支配階級・既得権層を形成してきました。
では対する北朝鮮ではどうだったのか? それに答えるのが今回の記事です。北朝鮮での親日派清算の実態は「親日派は処罰した」という当局の宣伝だけで詳細な資料が公開されなかった為に、南ですら長らくまとまった研究が進まず、ましてや日本ではほとんど知られてきませんでした。南で北の親日派処断に関してまとまった研究成果が出て来たのは、ようやく1990年代後半になってからです。逆にインターネット時代になってからの日本はひどいもんで、日本語で検索してもロクな記事は出て来ません。韓国極右派のデマをそのまま機械翻訳してパクったようなネット右翼の文章ばかりです。池田信夫の知ったかぶりなんて典型例でしょう。親日派を清算するという事は日本の植民地支配を裁くという事でもあり、だからこそ日本の右派は親日派を擁護し、韓国での親日派財産没収や親日人名事典刊行などをまるで我が事のように声を荒げて攻撃してきた訳です。同時に連中が、南と違って親日派を清算した北の事を蛇蝎のごとく嫌っているのはそうした文脈で理解する事も出来るでしょう。韓国の親日派と日本の戦犯、ならびにその子孫は大の仲良しにして今でも内鮮一体・運命共同体。実は「仲良くしようぜ」は間違ってるんです。日韓の戦犯&親日派は、日本の朝鮮侵略が始まった19世紀末からずっと「仲良くし続けてるぜ」が正しいのです! 戦後はその上にアメリカが君臨して、両者が対米忠誠競争をしているという部分がちょっと違いますが。
さて、お読みなってお分かりの通り、1945年8.15解放後の北朝鮮では親日派処断が新国家建設の必須課題として認識され、それが実行に移されました。親日派の土地や財産は没収、親日派達は選挙権などの公民権を剥奪され、罪状に応じて罰せられ、罪の重さによっては死刑やソ連軍に引き渡されてシベリア送りという厳罰まで執行されたという詳しい実態がこれで明らかになったと言えます。今であれば死刑というのはすべきではないでしょうが、親日派・民族反逆者処断という行為自体は全くもって当然の処置でしょう。
このように北では共産党政権の樹立とそれによる厳しい親日派処罰・粛清方針が定められた事から、北朝鮮地域の大物親日派達は大部分が南へ逃亡する結果にもなっています。解放後に北から南へ行った越南者の数は1946年の1年間だけで18万5000人になりますが、これの大部分は親日派でした。そうした人間達が自らの行為を全く反省せずに北朝鮮政権を逆恨みして「西北青年会」などの極右ファシスト団体を結成し、李承晩や朴正熙といった独裁政権に忠誠を誓って反共テロ活動を公然と行ってきたのが、南朝鮮解放後史の暗部です。外国で、それら南朝鮮の親日勢力と最も親しく手を結んで利用してきたのがアメリカと日本だったという事は言うまでもないでしょう。南では盧武鉉政権下で親日派の土地が没収されたり親日人名事典が刊行されるようになるまで、解放から半世紀以上の時間がかかったのです。これがどれだけ長かった事か! さらに、それすらも日本は外から口を極めて罵り、邪魔をした。植民地支配の反省など、日本という国には欠片もない事がよく分かるでしょう。
ただし文中にもあるように、解放後の北朝鮮でも親日派の中で医者や科学者・技術者・芸術家などいわゆる「手に職持った」人間達に関しては、悪質でない者や罪の軽微な者、過去の行状を真面目に反省した者を選別的に助命・減刑して再起用する例が多くありました。これは解放直後の人材不足が原因で、北朝鮮政権がそうした類の人々に一種の「抱擁政策」を行った事は確かです。過去に親日前歴があるにも関わらず手に職を持っていたので解放後の北朝鮮で再起用された例としては、舞踊家の崔承姫が最も有名でしょう。それでもこれらは比較的罪が軽かった事と、過去の親日行為に対して改過遷善(かいかせんぜん 개과천선)すなわち反省の色を見せた事による「減免措置」という点で、南の親日派や日本の天皇を無罪放免したのとは意味合いが異なると言えます。解放直後の人材不足がどれだけ深刻だったかというと、例えば残留日本人遺骨問題関係者の証言によれば、解放直後の北朝鮮では残留日本人の中から工業技術者を一部再雇用して帰国までの間に働かせた例もあります。本来なら早々に追い出したい日本人であっても使わねばならないほど、当時は技術者が足りないので仕方のない措置でした。当時金日成はこうした日本人技術者に直接会って仕事と朝鮮人技術者への技術引継ぎを頼み、朝鮮人よりも高給を補償したそうです。もちろん解放されたのに日本人に頼らねばならない現状に金日成も内心でははらわたが煮えくり返っていたでしょうが、我慢して太っ腹な所を見せました。そうした日本人引揚者達は帰国後も金日成主席の温情と優遇には感謝していると証言しています。解放直後北朝鮮における親日派の「選別的再起用」は、人材不足で日本人すら一時的に使わねばならなかった社会的情勢も考慮せねばならないでしょう。
ただしこの「選別的再起用」というのは飽くまで一部の例外的措置に過ぎません。北朝鮮政権の親日派処罰で最も重きを置いたのは「独立運動を弾圧した者」の処罰で、こうした人間達への処遇は大変厳しいものでした。具体的に言えば特高警察や満州軍軍人とその密偵といった手合いが該当し、これは北朝鮮政権の首脳陣が民族解放運動出身者達で構成されていた事からも当然の流れでしょう。解放後は追う者と追われる者の立場が完全に逆転した訳です。今回の記事に証言者として名のある申敬完氏の別の本に載っていた証言によると、解放後北朝鮮で新たに人民軍を創設する際、日本軍に徴用された事のある人でも南方へ送られていた人達は再起用しましたが、満州軍や特高警察にいた人間は絶対に人民軍に起用しませんでした。独立運動を弾圧した者に対しては「手に職(軍隊経験・軍事技術)がある」者であっても起用せずにケジメをつけたと言えるでしょう。
解放後の北朝鮮政権、後の朝鮮民主主義人民共和国が行った親日派清算方式をまとめると
・社会主義国家建設の必須課題として位置付けられていた。
・南朝鮮に進駐した米軍政と違い、ソ連軍政は北朝鮮での反日勢力執権と親日派処断を望み、これを支援した。
・初期は怒った民衆達が自発的に「親日派狩り」をやって人民裁判にかけた。
・司法機関が出来てからはそうした勝手な事は許されず、正式な裁判にかけて処罰した。大概1-2年の懲役か3-5年の強制労役刑に処されたが、重罪の者にはシベリア送りや死刑も執行された。親日派の財産や土地も全て没収され、そうした資産は後の土地改革で小作・貧農層に分配する原資となる。
・そうした処罰を恐れて、特に悪逆な行為をした者や大物の親日派は大部分が南へ逃げた。
・ただし新国家建設の人材不足という問題があった為、技術者や医師・科学者・芸術家など特別な技能を持った人々に対しては、罪の軽かった者や反省の色がある者を減免して選別的に再起用した。
・特高警察や満州軍将校など「独立運動を弾圧した者」に対しては最も厳しく処罰し、これらは解放後の警察や人民軍にも起用されなかった。
・朝鮮民主主義人民共和国成立後も憲法や国家綱領で親日派の社会再進出を法的に規制した。
という具合になるでしょう。
こうした親日派処断は北朝鮮だけではなく、中国の共産党と国民党も同様に戦後厳しく行いました。汪兆銘に代表される中国の親日派を「漢奸」と言いますが、こうした連中は共産党も(後に台湾に逃れる)国民党も戦後の短い期間に迅速に裁判を行って処罰しています。結局南と日本だけがこうした歴史清算作業をロクにやらず、いつまでも恥ずかしいザマをさらしていると言えるでしょう。その帰結が、日本が今やってる集団的自衛権行使や武器輸出解禁だという事です。
「彼ら(朝鮮・中国共産党・国民党)がうらやましく、我々(韓国・日本)は恥ずかしい」
このように歴史を考えられる韓国人と日本人こそがまともなのですが、そんな人はどれだけいるでしょうか。特に日本は!
【補論】申敬完という脱北者について
今回の記事には証言者として申敬完という人物の名が最後に登場します。この人は本名を朴炳燁(박병엽 パッ・ピョンヨプ)といい、他にも徐容奎という仮名を名乗った事もある朝鮮労働党の元高位幹部でした。この人はただの脱北者ではなく、労働党の祖国統一民主主義戦線中央委員会部長や対外情報調査部副部長などを歴任した大物で、日常的に金日成や金正日と直接会って報告を上げたり指示を受ける立場にいたのです。80年代初頭に第3国へ派遣されて、その後いかなる理由からか南へ亡命して、1998年に心筋梗塞で亡くなりました。この人は南に亡命後は自身の経歴が公表される事を極度に警戒して拒み、写真を撮る事はおろかインタビューする時も相手がまっすぐ正面に座る事すら避けたと言います。本名が公開されたのも亡くなった後でした。しかしながら、その証言内容は驚くほど正確かつ貴重な内容ばかりで、氏の遺した証言録の数々は朝鮮民主主義人民共和国を知るのに絶対外せない第1級の資料と言えるでしょう。今回の記事も著者・鄭雲鉉氏が解放直後の北における親日派処断の実態について朴氏から聞き取ったものであり、南ではあまり知られていなかった北の親日派処断について大変重要な証言となりました。日本においても「北朝鮮の親日派処断」についてある程度まとまった形で公開されるのはおそらくこの拙訳が初めてであり、今後は最低でもこの鄭雲鉉氏の記事を下敷きにしてこの歴史的テーマを語る必要があるでしょう。
ただし朴炳燁氏の証言集は日本で翻訳されていないものも多く、日本の共和国研究が遅れている一因にもなっています。中国朝鮮族の崔応九教授と同じで、日本で申敬完こと朴炳燁氏の名を知っているのはよほど本職の朝鮮半島研究者か、あるいはよほどのマニアしかいないでしょう。要するにまたしても「和田春樹なら知ってるが、石丸次郎ごときでは知らない(笑)」というレベルの要人という事です(誤解のないように言うならば、和田は国民基金の復活や天皇訪韓を目論むなど非常に問題のある人物ですが、さすがに長い間研究活動を続けてきただけあって、知識に関してだけ言えば石丸次郎のごときチンピラデマゴーグは足下にも及ばないという事)。実際に和田は朴炳燁氏の証言録である「真実の金正日」日本語版に解説文を寄稿したほどですから。
朴炳燁氏にインタビューした事のある記者達によれば、その中には現時点ではまだ公表出来ない内容や話も多くあるそうで、今後の公開が待ち望まれましょう。
同じ「燁」の字を名前に持つ朝鮮労働党高位幹部でありながら、黄長燁とは証言内容の資料性・重要性・貴重性に天と地ほども違いがあります。黄長燁は朝鮮民主主義人民共和国に関する歴史的に重要な話はほとんど語らず、ただひたすら自分を冷遇した金正日への恨み言と反共宣伝ばかりを喚き散らし、その講演活動で稼いだ金を元手にソウル高級住宅街の不動産を買い漁り、その築いた巨富を若い愛人とその間に出来た子供に相続させて死にました。最晩年の黄長燁は南北首脳会談に反対したばかりか、アメリカのイラク戦争すら「正義の戦争」と大絶賛しています。一方の朴炳燁氏は北に関するこれ以上ないほど詳細で貴重な歴史的証言を多く残しながらも、南では貧乏な生活を送り、とりわけIMF事態によって韓国社会の経済と民衆生活が悪化する中、ほとんど無一文に近い状態で病死しました。氏のアパートにはわずかな家財と、今後北に帰る事が出来たら母親に贈ろうと買っておいた服が一着あっただけといいます。私利私欲に走っていい加減なデマ話ばかり垂れ流した者が金持ちになって一生を終え、あまり金にならない歴史的に真に貴重な証言ばかり残した者が赤貧の中に死んで行く。同じ元朝鮮労働党高位幹部の亡命者でありながら、この違いは何なのでしょうか。これは我々朝鮮民族が置かれている立場をそのまま投影した有様ではないのか。黄長燁のような金と権力の亡者を「北朝鮮の改革者」「金正日に諫言した硬骨漢」のように描写してきた人間達こそ恥を知るべきでしょう。
朴炳燁氏の証言集のうち日本で翻訳されていない本などについては、いずれ改めて書評の形で御紹介していく予定です。
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